中野善壽さんは、殺風景で倉庫街だった天王洲を数年間で観光地に変えた経歴の持ち主として知られています。
中野善壽さんは2011年に寺田倉庫に入社し、2012年には寺田倉庫の代表取締役に就任して2019年に退職しています。しかし、その数年間の間に再開発を行い、倉庫街だった天王洲をおしゃれなアート街に変えることで寺田倉庫の社名を世に広めました。
本記事は、中野善壽さんがどのようにして社長になったのか経歴をはじめ、展開している事業やサービスについて解説します。
中野善壽のプロフィール
まずは中野善壽さんのプロフィールを見ていきます。
- 氏名:中野善壽(なかの よしひさ)
- 生年月日:1944年 (78歳)
- 出身:東京都
中野善壽さんは1944年に東京に生まれますが、当時は戦時中でした。両親がおらず、子供の頃は祖父母のもとで生活していたようです。祖父には特に何かあれば自分の責任になる、たとえ悪いことになっても人のせいにしてはいけないと強く教え込まれ育ちます。そのため現在でも、すべては自分が決めたことで、過去の自分の意思と行動によって今の自分があるという考えが教訓です。
中野善壽さんは青森県立弘前高校を卒業後、千葉商科大学に入学して学生時代を過ごします。野球が大好きでプロになることを考えていたようですが、大怪我をして断念してしまいます。
大学卒業後は伊勢丹に入社します。伊勢丹に入社してその5年後には、服飾を扱う鈴屋へ転職して、バイヤーとしてヨーロッパで商品開発の担当を経験して取締専務に就任します。
しかし、バブル崩壊後の1990年代になると衣料品販売の売行きが悪くなり、力覇集団からのヘッドハンティングで1991年に台湾へ移住します。
2002年には、10項目以上の業務領域を網羅している大企業遠東集団へ移籍して、百貨店や海外事業部の担当になります。さらに、2011年に寺田倉庫に入社し、翌年には代表取締役に就任して、社員一人当たりの売り上げが8倍になるという偉業を成し遂げます。その後、中野善壽さんは東方文化支援財団を設立して代表理事に就任し、さらに2021年からは熱海のリゾートホテルのニューアカオの代表取締役に就任していました。
中野善壽の経歴
ここからは、中野善壽さんの経歴について詳しく見ていきましょう。
野球選手になることを諦めて伊勢丹へ入社
中野善壽さんは東京に生まれ、早くに両親が他界してしまい、祖父母のもとで育ったようです。しかし、その祖父母も小学校時代に他界してしまったということです。
学生の頃は野球が好きでプロ選手になることを目指していたようで、千葉商科大学の野球部時代は海外遠征に挑んでいたようです。
ですが、額にボールが直撃して、その時に負った怪我がもとで野球選手になることを諦めてしまいます。就職活動期には他の仕事に就くことなど何も考えていなかったようですが、祖母が華道の生をしていたためか、大学時代に生活を送っていた野球部の寮に花を飾るために花を購入して活けていました。
この時、花を買っていた店の方が中野善壽さんのことを記憶していて、株式会社伊勢丹で当時役職のある方に紹介をしていただいたことが理由で就職することになったようです。
鈴屋に転職し様々な経験を積む
勤めて数年経った頃、中野善壽さんは部署の先輩社員と喧嘩になってしまい5年間勤めた伊勢丹を退職することになってしまいます。その後は、婦人服専門店としてバブル時代のファッションをリードしてきたともいわれる鈴屋に転職をします。バイヤーや商品開発の経験を積むことでパリやニューヨークで新店舗の立ち上げに携わったり、日本国内では初のファッションビルとなる青山ベルコモンズの開設にも関わったりという経歴があります。
当時アパレル業界では安定した運営をしている企業は少なく、小さい会社ができては倒産、またできては倒産するという繰り返しがあり、その様子を見てきたようです。
台湾の財閥に移籍し海外事業に深く関わる
鈴屋で順調に昇進してきた中野善壽さんですが、社内に自分の居場所がないと感じたのか、1991年に退職してしまいます。その後、1997年に台湾に行き、大手財閥が率いるコングロマリットである力覇集団に入社します。
鈴屋に勤めていて海外出張をしていた時に、偶然にも力覇のオーナーが中野善壽さんの講演を聞き、ファッションブランドのノウハウを持っていると信頼されたのです。百貨店経営で実力を発揮したことで、2002年には台湾の別の財閥の遠東集団に移籍します。百貨店事業を行うことで、海外事業にさらに深く関わります。
遠東集団は現在台北市に本社を置いており、紡績や化学繊維、樹脂製品メーカーの大手と言える会社です。最初は紡績企業でしたが、会社を大きくして事業を拡大するために小売業や運送業、セメント建材事業や金融業、電信事業や不動産開発業、投資事業を含む多くの分野に進出することで、2009年に創立60年を迎えて現在の会社名に改めています。
中野善壽さんは、遠東集団で特別顧問に就任し、役職を務めあげます。その実力は、台湾国内だけではなく、日本国内にも認めている人がいました。それが寺田倉庫の当時のオーナーである、寺田保信さんです。
中野善壽さんが鈴屋に在籍していたころから、アートや建築、デザインでの話をする仲で、家族ぐるみで30年以上の付き合いがあったという経歴があります。台湾へ移住した後も寺田保信さんは、台湾の中野善壽さんの元に通い、ある時そろそろ日本へ戻って来て欲しいとお願いをしたそうです。
寺田倉庫に入社し、1年後に代表取締役に就任
当時の寺田倉庫は、トランクルームや文書保管と不動産を手掛けている会社でした。単純に倉庫業を継続していくだけでは、寺田倉庫の会社としての将来性がないと考えたようです。
「息子が社長になるまでのあいだ会社を任せたい」と当時オーナーだった寺田保信さんに相談をされたことが理由で、2011年に寺田倉庫に入社します。
倉庫に預けられているワインやアートを見て中野善壽さんは、現代アートなら100年や200年先まで生かし続けることで新しい価値につながる可能性があるし、ここに焦点を当てることで新しいビジネスに仕立て上げていくことで競争会社も少なく面白いことができると思いついたようです。
ここから寺田倉庫は、メイン事業から撤退してアートや芸術品を専門に扱う倉庫へと方向転換します。寺田倉庫にはZOZOタウンの社長の前澤さんが123億円で落札したと言われているバスキアを保管しており、他にも世界の富豪たちが集めた時価数十億円すると言われているアートが保管されているようです。
中野善壽さんは寺田倉庫に入社して1年後に、代表取締役に就任します。代表取締役に就任後、社内改革を行い、売上高100億円を維持します。売上高が100億円以上の売上があれば、売却をすることを繰り返す断捨離術を行うことで運営を安定化させたという経歴があります。
倉庫街からアートの街へ
さらに、中野善壽さんは寺田倉庫がある天王洲アイルを閑散で寂しい倉庫街からアートの街に変えて、現在では若者が集うおしゃれなデート場所に生まれ変えた経歴を持ちます。2018年に世界の傑出したアートパトロンに贈られるモンブラン国際文化賞を、法人として初めて受賞し、「国内の倉庫業界では異例だ」と当時はSNSでもかなり注目されていました。
寺田倉庫を退職
中野善壽さんは寺田倉庫を退職された後、アジアの芸術家を支援する財団理事を務めます。2021年3月にホテルニューアカオの取締役議長、2022年3月には代表取締役会長に就任されています。
寺田倉庫とは
中野善壽さんは実業家でありながら、倉庫の概念を変えることができた異色経営者です。それは、中野さん自身がミニマリストで、断捨離術に長けているためとも言われています。
中野善壽さんが入社した寺田倉庫は、東京都内にある天王洲アイルに本社を置く倉庫業者です。ワインやアート、映像フィルムなど各商材に適した温湿度管理での保管を行っています。
必要なもの以外は整理をするという考えを持つ中野善壽さんが代表取締役に就任して最初に行ったのは、大規模なリストラでした。主な事業からほとんど撤退して700億円あったであろう売上高を100億円まで激減させ、1000人いた社員を100人に削減しました。
このように会社自体の断捨離を行い、会社に勤務する社員と売上高のコントロールを行います。加えて、法人や富裕層を相手にビジネスを行っていましたが、さらに一般消費者にも範囲を広げて展開していきます。
また、アートやワインなどの高級品の他に、新たな事業として始めたのが毎月200円から箱単位で品物を預けることができるミニクラと呼ばれるサービスです。ネットで品物の様子を確認したり、品物を梱包して発送したりするサービスもあります。
この事業を推進させると、寺田倉庫は和製Amazonとも呼ばれるようになり、消費者に受けて収益が増えました。
ミニクラは預けて管理していても、ネット上で売買が可能で利用者に収入が入るメリットがあります。ものを持たない生活は便利であるという発想をビジネスに活かしたことで、中野善壽さんは会社の収益構造を安定することに成功しています。
中野善壽の推定年収
中野善壽さんが通っていた大学は千葉商科大です。プロボウラーの秋山夕紀さん、元野球選手の木村茂さん、またタリーズコーヒージャパンの代表取締役社長の小林義雄さんなど、著名な方を他にも輩出しています。
また、中野善壽さんは6社の経営を経験されていて、プロ社長とも言われている方です。現在はホテルニューアカオの代表取締役会長に就任されていて、過去は台湾に渡り活躍されていました。
これらの経歴から、かなり多くの年収があるのではないかと推定されますが、SNSなどで調べてみても、具体的な金額は明かされていません。しかし、過去に勤めていた寺田倉庫の売上を100億円ほどに保ちたいと言われているので、寺田倉庫の年商は100億円ではないかと考えられ、寺田倉庫の社員は100人程度に保持されているようです。
業種によって異なる場合があるので断定はできませんが、一般的に従業員300人未満の会社の社長の年収は3,000万円程といわれています。このため、中野善壽さんの年収も2,000万円から3,000万円ではないかと推測されます。
しかし、中野善壽さんは必要ないお金はすべて寄付してしまうのだと言います。それは中野さんが若い頃に知人から不遇な子供たちの話を聞き、年間10,000円で5人の子供達を高校へ進学させることができたことが理由です。
儲けたお金や資産はほとんど寄付しているという噂があるようです。ここから実際の年収は、もっと高金額なのではないかとも考えられます。
プライベートはほとんど知られていない
プロ社長と評判のある中野善壽さんですが、詳細はほとんど知られていません。メディアに出演されておらず、プライベートなことを公表しないようにしているためです。
寺田倉庫に勤務していた頃は社員でも顔を見たという方はなかなかおらず、実在しているのか確かではなかったという噂がたつほどです。
また、個人的にTwitterやFacebookをされている会社の社長もいるようですが、中野善壽さん自身はされていないようなので、SNSで検索しても詳しいことが現在でもわかっていません。
しかし、近年メディアで滝川クリステルさんとの対談中、下手に子供たちにものを持たせると喧嘩をすると答えていた経歴があるようで、この言葉から結婚されて子供がいるのではないかと考えられています。
また、子供たちという複数形なので、具体的な年齢まではわかりませんが一人ではなく二人以上のお子さんがいる可能性がありそうです。
しかし、奥様であろう方については、いつどこで出会い結婚されたのか、またどのような女性なのか、探しても情報が開示されていませんでした。素晴らしい思想を持った方なので、このような方を父親に持ったお子さんも素敵な人なのだろうという噂があります。
加えて、中野善壽さんは台湾に移られてからは、日本へ週に2回飛行機で移動して勤務するという生活を送られていたそうです。仮に家族がいれば、現在でも台湾を拠点として生活をされているかもしれません。
中野善壽の評判
中野善壽さん本人は、お金に関心を持たず、寺田倉庫では輸入ものでワインを扱っているのに酒にも関心を持っていないし飲むこともないし、煙草も吸うことがないようです。
また、蓄財で将来のためにお金を貯めることがないので、必要なお金を少し手元に残す他は寄付をしています。
このため、中野善壽さんの考え方について、ある意味刹那主義者で、寺田倉庫の社長をしていたのはいつ預けても安心と考えてもらえるような会社を作りたかったからで、それはその場その時を楽しんでもらいたいために子孫に資産をどう残すかを考えることや心配を取り除ける機会を作ったのだとも考えられているようです。
また、中野善壽さんは自分自身の生き方について「明日のために今日何かをしておくことは考えないし、自分は一瞬一瞬を生きているから」だと言い、それを恋愛に置き換えて振られた女性を忘れるためには大好きな彼女に会うことがよい方法とも話しています。
本能的に人間は夢中になれることがあれば、頭から余計なことが排除されていくので、中野善壽さんが社長としてよい評判を持ち成功しているのは1つのことに集中して打ち込むことができるからこそではないかと考えられます。
だからこそ、土壇場でのキャンセルが多いと中野善壽さんは自分を評価しています。
この何も持たないという考えをもとにして中野善壽さんが執筆した「ぜんぶすてれば」は、ビジネス書だけではなく、自分自身の在り方や生き方を考えるきっかけをつかむことができそうだという、読者からのよい評判があります。
まとめ
断捨離することが好きで、贅沢はしないし必要なものは一切持たない、というのが中野善壽さんの考え方のようです。周囲から見るとそれは稀有な事に見えますが、好きなことをして好きなように生きていきたいと考えたら、大事だと思われることのみに集中することが大切なのだという教えのようにも感じられます。
また、寺田倉庫の社長をしていた頃に中野善壽さんは、自分の机には椅子がなく、立ったままで責務をこなしていたと言われていて、何をするのでも徹底することが大事なのだということにも気づかされます。