大平光代さんは、元極道の妻で現在は弁護士です。
中学時代に壮絶ないじめに遭い、自殺未遂をします。その後、復学しますがいじめは無くならず、人間不信になり非行に走ります。しかし、ある出会いをきっかけに一念発起して弁護士になりました。
半生を描いた著書『だから、あなたも生きぬいて』は260万部を超えるミリオンセラーとなっています。
今回は、大平光代さんのプロフィールや詳しい経歴とともに、どん底から這い上がったきっかけや司法試験に一発合格した勉強法をご紹介します!
・大平光代さんのプロフィールと経歴
・大平光代さんの家族構成や現在
・極道の世界から這い上がったきっかけ
・中卒から司法試験に一発合格した勉強法
大平光代のプロフィール
- 名前:大平光代(おおひら みつよ)
- 生年月日:1965年10月18日
- 出身地:兵庫県尼崎市(出生は西宮市)
- 現在の居住地:丹波地方
- 肩書き:弁護士、作家、教員、元大阪市助役(現在の呼称は副市長)
- 保有資格:宅地建物取引士、司法書士、弁護士
大平光代さんは、兵庫県西宮市で生まれ、尼崎市で育ちました。
弁護士以外にも、作家や教員、元大阪市助役など様々な経験をされています。
資格は弁護士以外に、宅地建物取引士、司法書士を保有しています。
大平光代の経歴
大平光代さんの経歴をご紹介します。
幼少期
大平光代さんは、会社勤めをする両親の間に一人娘として生まれます。
両親共に会社勤めをしていたため、学校が終わると近くに住む母方のおばあちゃんの家に行っていました。そのため、大のおばあちゃん子でもありました。
1978年7月に、両親がマイホームを建て、その家で大好きなおばあちゃんと同居することになります。転居先は同じ市内でしたが、学区が異なるため、転校をする必要がありました。
転校し、いじめを受けるようになった中学1年生
大平光代さんが転校してしばらくすると、陰湿ないじめを受けるようになります。
きっかけは、同じクラスのA子に話しかけられたのに返事をしなかったことです。A子は学年で番長格の女性でした。
最初は、A子とその仲間に無視をされたり、すれ違う時にわざとぶつかったりされる程度でしたが、何日も経たないうちに、クラス全員から無視をされるようになります。
そして無視だけではなく、落書きや私物を捨てられたり、トイレの個室で上から水をかけられたりするなど、次第にいじめはエスカレートしていきました。
そんな状況が続き、ついに学校に行けなくなりました。
その様子を不審に思った両親は学校に連絡。当時の担任は、大平光代さんとA子を呼び出し握手をさせ目に見える形でのいじめは無くなったものの、根本的な解決にはなっていませんでした。
友人に裏切られ、自殺未遂を図った中学2年生
中学2年生になり、A子とはクラスが離れ、3人の友達が出来ました。大平光代さんは友達が出来たことが嬉しく、好きな男の子の話や自分の悩みを全て話しました。しかし、友達だと思っていた3人は裏切ります。大平光代さんが打ち明けた悩みなど全てを違う生徒に言い伝えていたのです。
そして中学2年生の3学期に、その3人を含むその他大勢の生徒から好きな男の子や悩みをからかわれ、人格を否定されます。
大きなショックと憎しみを感じた大平光代さんは、1980年1月8日、武庫川河川敷で自分のお腹に包丁を刺して自殺を図りました。幸い、近くを通りかかった男女に救急車を呼ばれ、一命をとりとめます。
傷の深さは10センチ、うち1箇所は肝臓にまで達しており、1.2リットルの輸血をし、集中治療室で治療を受けました。
人間不信となって非行へ…
大平光代さんは自殺未遂により1ヶ月半の入院を経て退院し、復学します。
しかし、いじめは無くなりませんでした。
両親に転校したいと伝えても、世間体を気にする母親にもショックを受けます。
そして次第に夜の街に出かけるようになり、少しずつ様々なグループのたまり場に出入りしていくようになります。
しかし、非行仲間にも自殺未遂の噂は広まっており、ある日そのことを馬鹿にされました。
この時、大平光代さんの中で「人を信じること」への思いが壊れ、暴力団の世界に足を踏み入れます。
周りに認められたい一心から背中に刺青を入れますが、結局そこにも自分の居場所はありませんでした。
さらに大好きだったおばあちゃんの死に目にも合えず、酒浸りの日々を送ります。
どん底から司法試験一発合格
どん底の日々を送っていた大平光代さんは、その後司法試験に挑戦し、1994年10月、29歳の時に見事一発で合格します。
そして司法試験に合格後は、弁護士の道を選び、主に青少年問題を担当し、非行少年の更生に努めました。
女性初の大阪市助役に就任
弁護士の道を選んだ大平光代さんは、国選弁護士として活動します。
自分と同じような思いをする青少年を1人でも多く救いたいという思いから、弁護士活動と並行して講演会やメディアへの出演、出版活動も行います。
このような活動を続ける中で、大阪市長当選直後の関淳一氏より「子どもたちの気持ちがわかるだろうから、大阪の教育をやってほしい」と依頼され、2003年12月に女性初の大阪市助役に就任しました。
弁護士、助役時代は、1日2時間睡眠で奮闘していたといいます。
助役退任後と現在
2005年10月に関市長の辞任に伴い、助役を退任し、梅田総合法律事務所に入所します。
現在も梅田総合事務所に客員弁護士として席を置いていますが、2006年に出産後は、育児に専念しつつ、絵本づくりの活動を行っています。
大平光代の家族構成は?再婚相手は川下清弁護士
現在の大平光代さんの家族構成は、夫の川下清弁護士と娘の悠ちゃんの3人家族です。
大平さんは、16歳の時(1981年頃)に暴力団の組長と結婚し、19歳の時に出産しています。
この時の子どもは、元夫との離婚のタイミングで離れ離れになり、その後1度も会っていません。
その後、弁護士と助役活動を経て、2006年2月14日に弁護士事務所の先輩である川下清さんと再婚。同年9月3日に長女の悠(はるか)ちゃんを出産します。
悠ちゃんは生後間もなくダウン症、肺高血圧症、心臓病、白血病と診断されました。
出産後、しばらくは大阪市内で生活をしていましたが、悠ちゃんに自然の中でゆっくりと育ってほしいと思い、丹波地方の山間地に一軒家を建てて移住しました。(詳しい都道府県は非公開)
大平光代が極道の世界から這い上がった道のり
ここからは大平光代さんがどのようにして人生をやり直していったのかを詳しくご紹介します。
父の友人と偶然の再会
大平光代さんは16歳の時に自分の居場所がほしくて暴力団の世界に入りましたが、結局そこにも自分の居場所はありませんでした。
人間のありとあらゆる汚さを見て身も心もボロボロになり、投げやりな日々を送っていました。
毎日酒浸りの日々を過ごしていた22歳の時、とある人と出会います。
1988年の春頃、ホステスとして働いていた北新地のクラブで、偶然父親の友人である大平浩三郎さんと再会します。その日、浩三郎さんは取引先の人を接待するために来店しました。大平光代さんの存在に気付いた浩三郎さんは、「いつでも連絡しておいで」と名刺の裏に電話番号を書いて帰りました。
もう一度、人を信じようと思った出来事
この再会をきっかけに、大平光代さんは浩三郎さんと時々会って話をするようになります。
浩三郎さんは、大平さんに何度も人生をやり直すように説得しました。
大平さんは、反発しながらも「おっちゃんに会いたい。会って話をしたい」という気持ちが強くなっていきます。
そんなある日、いつもの通り喫茶店で浩三郎さんと話をしていた大平さんは、こう言い放ちます。
「今さら立ち直れって、何を寝言言うてんねん。口先だけで説教するのはやめてくれ。そんなに立ち直れって言うんやったら、私を中学生の頃に戻してくれ」
それを聞いた浩三郎さんは、他の客がカップを落としそうになるくらいの迫力で大声を上げます。
「確かに、あんたが道を踏み外したのは、あんただけのせいやないと思う。親も周囲も悪かったやろう。でもな、いつまでも立ち直ろうとしないのは、あんたのせいやで、甘えるな!」
いつも温和な浩三郎さんが、世間の目を気にせず目の前の自分に向き合ってくれる姿と、「道を踏み外したのは、あんただけのせいやないと思う」という言葉に、大平光代さんは嬉しくて体が震え、泣き崩れました。
そしてもう一度、人を信じてみようと思います。
最難関の司法試験挑戦へ…
浩三郎さんとの出会いをきっかけに、人生のやり直しを誓った大平光代さんは、夜の仕事を辞めて昼の仕事を探し始めます。
しかし、中卒で資格のない大平さんを雇ってくれる会社はありませんでした。
そこで資格を取ることを決意します。
悪い時の根性が抜けず、漢字すらまともに読めない状況からのスタートに何度も挫折しそうになります。しかし、そのたびに浩三郎さんの励ましを受けながら、一歩ずつ前進していきました。
その結果、1988年に宅建、1990年に司法書士の試験に合格。1991年1月には、司法書士の登録を済ませ、業務を開始しました。
その後、浩三郎さんから次の目標を提案されます。
「中卒でも頑張ればできるということを証明してみ」という浩三郎さんの言葉を受け、司法試験の挑戦を決意します。司法試験の一次試験免除のために1992年4月、通信制大学に入学しました。
父の発病と猛勉強
1993年春、大学2回生になった大平光代さんでしたが、この時お父さんが癌であることが判明します。病状はかなり深刻でした。
これまでの親不孝の償いのためにも、お父さんが生きている間に絶対に合格することを誓い、睡眠以外は全て勉強に充てるという生活を続けました。
1993年に通信制大学で一般教養の単位を取得し、司法試験の1次試験免除の切符を手にします。そして翌年の1994年10月、大学3回生の時に司法試験に一発合格しました。
1995年4月から2年間、司法修習生として採用され、1997年、ついに弁護士としてのキャリアをスタートしました。
娘の姿を見届けるかのように、お父さんは翌年の1998年2月に息を引き取りました。お父さんは亡くなる直前に、浩三郎に大平光代さんを養女にして欲しいと言い、大平さんは浩三郎さんの養女となりました。
大平光代を奮い立たせた言葉「今こそ出発点」
大平光代さんは、人生をやり直そうと決心した時に浩三郎さんからある言葉を送られます。
「今こそ出発点」
人生とは毎日が訓練である
わたくし自身の訓練の場である
失敗もできる訓練の場である
生きているを喜ぶ訓練の場である
今この幸せを喜ぶこともなく
いつどこで幸せになれるか
この喜びをもとに全力で進めよう
わたくし自身の将来は
今この瞬間ここにある
今ここで頑張らずにいつ頑張る
これは京都大仙院の尾関宗園(おぜきそうえん)さんの言葉です。
浩三郎さんが経営する設備会社の応接室にかけられていた額を、A5サイズに縮小コピーして渡されました。
もう一度人生をやり直そうと決心した心にしみるように入り、そのA5サイズの紙を、時には壁に貼り、時には手に取り、何度も何度も読み返しました。
手垢でぼろぼろになったA5の紙を、現在も大切にしまっているそうです。
大平光代の勉強法
ここでは、大平光代さんの勉強法をご紹介します。
大平光代さんは、経歴の章でもお伝えした通り、中学時代に壮絶ないじめを受け、そこからまともに学校に行けていない状態でした。
そんな状態から、宅地建物取引士、司法書士、弁護士と国家資格に合格しています。
大平さんは、計画を達成するために次の3つが大切だと語っています。
- 集中力を高める方法
- 暗記に必要最低限である方法
- 効率良く勉強する一番のコツ
それぞれ詳しく解説します。
集中力を高める方法
大平さんは集中力を高めるために次の7ステップをおすすめしています。
- あれもこれも1度にしようと思わない
- したいと思うことを全部紙に書き出す
- 書き出したものに優先順位をつける
- 1番したいことが決まったら、それをするためにはどうすればよいのかを考え、紙に書き出す
- それをするのに必要なものだけをそろえる
- 必要なもの以外、目に入るところには置かない
- 全てにおいて無理な計画は立てない
暗記に必要最低限である方法
暗記をする際におすすめしている方法は次の2つです。
- 繰り返す
- 関連づけて覚える
効率良く勉強するたった1つのコツ
大平光代さんが効率良く勉強するためにおすすめしているのは「遠回りのように見えても基礎をきっちり学ぶこと」です。
知識が定着し、応用も効いて、結果的に効率的になるためです。
とにかく最初に基礎を身につけることを説いています。
まとめ
当記事では、元極道の妻で現在は弁護士の大平光代さんについてご紹介しました。
世間に対する怒りや不満を、道を踏み外すことで解消しようとしても、それは何倍にもなって自分に跳ね返ってくるとも言います。
一つずつ困難を乗り越えて、幸せを掴むことの大切さを自身の人生で示した大平光代さんからは学べることがたくさんあります。
少しでも参考にして頂ければ幸いです。