安田隆夫さんは、激安の殿堂「ドン・キホーテ」の創業者です。
ドン・キホーテは全国に店舗があり、商品の陳列方法や値札も独特で、見ているだけでも楽しむことができます。
今回は、安田隆夫さんのプロフィールや経歴とともに、家族構成や資産、一代で世界進出まで急成長させた経営に対する考えをご紹介します。
・安田隆夫さんのプロフィールと経歴
・家族構成や資産
・激安の殿堂「ドン・キホーテ」の歴史
・安田隆夫さんの経営に対する考え
安田隆夫のプロフィール
安田隆夫さんのプロフィールをご紹介します。
- 名前:安田隆夫(やすだたかお)
- 生年月日:1949年5月7日(現在74歳)
- 肩書き:株式会社PPIH(旧:株式会社ドン・キホーテホールディングス)の創業会長兼最高顧問、Pan Pacific Retail Management(Asia)Pte. Ltd. の会長兼社長兼CEO
- 出身地:岐阜県大垣市
- 現在の居住地:シンガポールと日本の2拠点生活
- 出身校:慶應義塾大学法学部
安田隆夫さんは、1949年に岐阜県大垣市で生まれました。高校まで岐阜県で過ごし、大学進学と同時に上京。その後は関東を拠点にして事業を展開します。
2015年6月に株式会社PPIHの代表取締役会長兼CEOを退任したタイミングで拠点をシンガポールに移しました。ただし、現在も年間約100日は日本で過ごしており、シンガポールとの2拠点生活をしています。
安田隆夫の経歴
ここからは安田隆夫さんの経歴をご紹介します。
安田さんは自身のことを「人一倍妬み深く、我欲と不満が強くてハングリー度の高い人間」だと語っています。
カネも人脈もない状況から、どのようにして誰もが知る「ドン・キホーテ」を一代で築き上げたのでしょうか。
学生時代
安田隆夫さんのお父さんは工業高校の技術科の専科教師で、テレビも「NHK以外は見るな」と言うような厳格な人物でした。しかし、お父さんの思いと期待とは裏腹に「親父みたいな人生は面白くない」と反発していきます。
そんな安田隆夫さんは、高校2年生の3学期から、それまで全くしてこなかった勉強に取り組み始めます。理由は、大垣の町と実家から一刻も早く出ていきたいという思いからでした。
お父さんからは就職先に地方公務員を勧められますが、そんな人生は嫌だという思いから難関大学合格を条件に交渉。そして、見事現役で慶應義塾大学の法学部に合格します。
しかし、大学入学後に周囲との育ちの違いを目の当たりにし、強烈な嫉妬心と劣等感、悔しさと無力感に苛まれて次第に大学に行かなくなり、1年生で留年が確定。激怒したお父さんから仕送りをストップされ、親に頭を下げたくない思いから肉体労働と麻雀で学費と生活費を稼いで5年で卒業しました。
サラリーマン時代&放浪時代
大学卒業後は小さな不動産会社に就職します。あえて小さな不動産会社に就職した理由は、「小さな会社なら早くのし上がることができること」と「不動産業ならノウハウを吸収していずれ独立のチャンスも掴めると感じたこと」でした。しかし、入社10ヶ月で当時のオイルショックの煽りを受けて会社が倒産します。
ここから働かずに大学時代に鍛えた麻雀で食い繋ぐ時期が続きます。しかし、この時期の体験が後のドン・キホーテのマーケティングで大いに役立つことになります。
行くあてもなく、夜の繁華街をさまよい歩いたことで、夜の街を1人で漂流する若者たちの気持ちがわかるようになりました。さらにプロ雀士との真剣勝負の中で、「運気の流れ」や「勝負の勘どころ」を見抜く力を身につけていきます。
ドン・キホーテの前身「泥棒市場」を開店
安田隆夫さんは自堕落な生活に終止符を打つべく、心を入れ替えて実業を始めるために必死に稼いで軍資金800万円を貯めました。
しかし、実業をしたいとはいえ、何を始めれば良いのかがわからず、消去法で残ったのが「物を売ること」でした。
そして「質流れ品」を売るディスカウントストアに立ち寄った際、どの店舗も店主が無愛想なことを感じます。安田隆夫さんは「これで商売が成り立つなら自分にもできそうだ」と思い、1972年29歳の時に雑貨のディスカウント販売を始めます。
この店舗が記念すべき創業の店「泥棒市場」です。
「ナイトマーケット」の可能性を発見
「泥棒市場」を開店後、金も信用もない状況だった安田隆夫さんは、まともな仕入れをやっても勝てる訳がないと感じます。
そこで考えた戦略が大手メーカーや問屋の倉庫裏口に毎日行くことでした。
最初は取り合ってくれなかった倉庫番のおじさんも、少しずつ相手をしてくれるようになり、ゴミとして処理される訳アリ商品を放出してくれるようになりました。
これらの商品を店舗に並べ、夜な夜な店舗前で作業をしていると、次第に通行人から声をかけられるようになります。
夜遅くに来店する顧客は、お酒が入っていることが多く、このような商品をおもしろがって買ってくれました。安田隆夫さんはこれに対し「深夜の顧客は、主婦など厳しい買い物が多い昼の顧客とは全く違う」と大いなる市場の可能性を見出します。そして、積極的に深夜営業を開始しました。
卸売業を経て、再び小売りの世界へ
泥棒市場は次第に軌道に乗り、安田隆夫さん1人では切り盛り出来ない忙しさになりました。
大量の商品を仕入れる機会も増え、余分に仕入れた商品を他店に回すようになっていきます。
この流れ自体がビジネスとして成立するようになり、泥棒市場を他人に譲渡して卸専業の会社「リーダー」を設立します。
リーダーは設立数年後に年商約50億円を達成します。
大成功をおさめたように感じますが、安田隆夫さんは満足しませんでした。
泥棒市場で培った安売りのノウハウとリーダーで培った資金力と商品力を掛け合わせて再び小売業で勝負をかけることを決心します。
そして1989年3月、東京都府中市に「ドン・キホーテ」1号店を開店させました。
安田隆夫の資産と家族構成
安田隆夫さんの資産は、約4,630億円です。
2023年の「Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン)」が発表した日本長者番付では、14位です。(参考URL:https://forbesjapan.com/feat/japanrich/)
2022年は15位、2021年は13位と毎年資産4,000億円台でランクインしています。
ちなみに安田隆夫さんの自宅は、現在の拠点であるシンガポールのセントーサ島にあります。価格は日本円で約16億円です。
家族構成は、奥様のマ・ヤピンさんと息子さんの安田純也さんの3人家族です。奥様のマ・ヤピンさんはシンガポール人です。息子の純也さんは、雑貨企画販売を行う株式会社トライ・ディーの代表取締役を務めています。
「ドン・キホーテ」の歴史!ピンチからの大逆転劇
これまでドン・キホーテは数々のピンチに追い込まれながらも、全てを乗り越えて成長してきました。
安田隆夫さんはこれらの出来事を「禍福はあざなえる縄の如し」と語っています。
この章では特に大きなピンチだった3つを取り上げ、それらをどのようにして乗り越えたのかをご紹介します。
ピンチ①:住民反対運動が発生
1999年夏、同年6月に開店した西東京市の五日市街道小金井公園店に、周辺住民から「夜11時閉店」を申し入れられたことから事件は始まります。
この申し入れは、深夜に大きな売上を占めるドン・キホーテにとっても、深夜に来店する顧客のためにも受け入れ難い要請でした。
そんな中、ドン・キホーテ側は真摯に要請を受け止め、近隣住民に対して二重サッシや空気清浄機の取り付け、路上清掃強化などの対策を提案します。
しかし、これらの提案は全て拒否され、前倒し閉店の要請は他店にまで飛び火することになります。
メディアによるバッシングも重なり、ドン・キホーテのイメージは急降下しました。
安田隆夫さんは「今は守りの時」と判断し、謙虚かつ冷静な視点で問題を整理します。
問題点を整理した結果、当時のドン・キホーテの経営は来店する顧客のことだけを考え、その延長線上の地域住民のことまで意識が向けられていなかったことに気づきます。
この気づきを踏まえ、利益の5%をあらかじめ環境対応コストとして予算に組み込むといった徹底した環境対応への努力を行うことで反対運動はおさまりました。
ピンチ②:医薬品販売で厚労省とバトル
2003年8月、ドン・キホーテはテレビ電話による医薬品販売を始めました。
これは儲けのためではなく、(ドン・キホーテの医薬品の売上は当時も現在も全体の1%程度)「歯が痛くて眠れない」「子どもの熱を下げたい」と深夜営業するドン・キホーテに駆けこんで来る顧客に向けて考えられ、開始したサービスでした。
しかし、厚労省から「違法の”恐れ”がある」と待ったがかかります。
安田隆夫さんは、「販売」がダメなのであれば、「無料提供」すれば良いと考えます。とにかく夜中に藁をもすがるように来店する顧客を助けたい思いでした。
しかし、これに対しても厚労省は「違法の疑いあり」と申し入れてきます。
この問題に対して追い風となったのが、当時の東京都知事である石原慎太郎氏でした。
石原氏はドン・キホーテの取り組みに対して「大賛成。大いに奨励する」と発言。この発言によって世論の多くがドンキ支持に傾き、結果厚労省は「深夜、早朝に限り医薬品のテレビ電話販売を認める」ことで合意しました。
ピンチ③:連続放火事件
2004年12月、相次いで2店舗に放火されるという被害に遭います。
うち1店舗は全焼し、従業員3名が犠牲になりました。
亡くなった従業員3名は、顧客を避難誘導後、さらなる安全確認のため店内に再突入して命を落としました。
この事件に対して、メディアは圧倒陳列や迷路型レイアウトが火災避難の障害になったとしてドン・キホーテを叩きます。
顧客は全員避難して無事だったにも関わらず、歪曲報道が独り歩きし、ドン・キホーテは住民反対運動の頃を上回る企業存亡の危機に立たされました。
そんな中、遺族の「社長さん、うなだれてないで頑張ってください。悪いのは放火犯でしょう。ドン・キホーテがこれでダメになってしまったら、それこそ兄は犬死にじゃないですか」という言葉に安田隆夫さんは背中を押されます。
その後、メディアや世間の誤解に対してではなく、ドン・キホーテが社会に支持される結果を出すために入念な対策を検討、実行していくことで困難を乗り越えました。
安田隆夫が一代で「ドン・キホーテ」を成功させた経営哲学
最後に安田隆夫さんが一代でドン・キホーテを成功させた経営哲学3つをご紹介します。
経営哲学①:自分自身が「エースで四番で監督」から信じて頼む経営へ
ドン・キホーテ1号店は当初、うまく軌道に乗りませんでした。
その理由は、安田隆夫さんが目指す店づくりが、これまでの小売り業界の常識と正反対だったことです。
当時の小売店の常識は「品物が見やすく、取りやすく、買いやすい」でしたが、安田隆夫さんは「見にくく、取りにくく、買いにくい」店づくりを従業員に指示したのです。
いくら言葉で自分のノウハウを伝えても従業員が体現できず、思い通りにいかない現実に苦しみます。
そこで「教える」ことをやめ、「自分でやらせる」ことに方向転換しました。仕入れ、陳列、根付け、販売を従業員に権限移譲することにしたのです。
すると、社員自らが「どうすれば売れるのか?」を考えるようになりました。
その後、安田隆夫さんは各店舗の運営には口を出さず、自由にやらせることでドン・キホーテの業績はどんどん上がっていきました。
経営哲学②:商売は真正直が1番儲かる
商売を始めた頃の安田隆夫さんは、売る側の視点でしか物事を考えられませんでした。売ろうとすればする程、顧客はその圧力を感じて引いてしまいます。
そしてようやく見えたことが「売る側の意図は、買う側からは簡単に見破られてしまう」ということでした。
そこでドン・キホーテは「金(売上と利益)よりも人気(顧客の支持)」と割り切ることにします。これがドン・キホーテグループの企業原理「顧客最優先主義」です。
不思議なことに、これ実行すると、売上と利益がみるみる上がりだしました。
安田隆夫さんは「商売は真正直にやるのが、一番儲かる方法だ」と気付きます。
経営哲学③:主語は「自分」ではなく「相手」に置く
安田隆夫さんは①と②を通して、「自分」を主語にすることから「相手」を主語にして考え、行動する重要性に気付きます。
人は何か問題が起きた時、問題の原因を考えたり打開策を実行しようとします。それでも問題が解決しない場合、打開策が同じ立脚点からしか発想されていないことが原因だと安田隆夫さんは言います。
行動しても問題の解決がしない時は、立脚点を変え、「原因を解決する側」から「原因になっている側」へと発想転換をしてみることで見えなかったものが見えるようになると語ります。
ちなみにドン・キホーテでは売り場のことを「買い場」と呼びます。これは顧客の視点で店舗を見る意識を忘れないことからきています。
まとめ
当記事では、「ドン・キホーテ」の創業者、安田隆夫さんについて紹介しました。
一代で4,000億円以上の資産を築いた安田さんの成功の裏には、人と違うことを考えて行動を積み重ねる努力がありました。
「顧客最優先主義」を企業原理に掲げるドン・キホーテグループの今後の成長が楽しみです。